さはらやの倉庫 短歌と愚痴と雑記

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雑記 (記憶とか私とか)

 なんとなくつまらなくて、読書も勉強もTwitterもしたくなくて、あえて言えばおしゃべりがしたいのでブログを書きます。

 以前から書きたい内容があったけど、書けてなかったのでそのことを。

 注意※ここでは意識や感覚や感情の固有なものを「わたし」と表現し、体、記憶の固有なものを「私」と表現しています。「わたし」は複数存在し、「私」はひとつであるという考えの元に書いています。(表記の理由は下の方に書いてあります)


 1ヶ月ほど前に、以下のような連ツイをしました。

 高安国世のアンソロジーが買えたので読んでる。平行世界の自分からの手紙みたいな気持ちで読んだり、VR体験している気分で読んだりしていて時々泣きそうになる。無意識に作者(主体)に、"とある"わたしを当てはめていた。私の記憶みたいな部分から体が震える気がした。
 決して、高安国世と境遇が似ているとかではなくて、もう一人のわたしをそこに見つけた感じ。もしくは、映画の世界に入り込んだ感じ。
(そのふたつは全く違う読み方なのですが、高安国世という人を意識してという所と、私の記憶を引っ張り出して読んでいるというところで共通です。)


 それとは別に、作者を考えず三十一文字だけを意識して読んだりもしている。同じ歌なのに自分の違う部分が震える気がした。私の記憶とは全く別の部分。無意識に近い心みたいなわたしの部分が。それは本屋で詩を立ち読みしているときと同じ感覚で、言葉そのものを読んでいるのかなと思った。 (これをテキスト論的に読んでいるとしたいが、そこまでちゃんと読んでない。言葉の音、意味、三十一文字に対してのみの目的そのものに驚いて震える感覚です。特に言葉の音が好き。)


 最近、わたしはなぜ私という肉体に有限的に発生しているのか謎で(昔の私がこれを聞いたら頭おかしいんちゃう?と言いそう)けれど、高安国世の歌を2通りの(記憶を介してと記憶を介さないで)読み方で読んで、その2通りの震え方が私という肉体で重なって、あぁ私が一人で良かったと思えた。

 なんか、ほんと頭おかしいんちゃう?と言われそうでブログにだけ書こうとしたけど、まとまらないのでTwitterに吐き出します。わたしが一つに重なるような震える体験をして、私が1つの肉体を持って生きていて良かったと思えた。最近は苦しいことの方が多かったのでこれは私の賛歌だなと思った。


 こんなことをTwitterで書いて、いいねをいくらかもらったので少し嬉しかった。


 ここで、二通りの震え方と言っているが、つまりそれは感じ方の違う「わたし」が二人以上「私」の
中に同居しているということです。

 「わたし」が二人以上いると言うと、いやわたし(一人称)は一人でしょと思われるかもしれない。事実、わたしもそう思う。けれど、わたしがこういう考えに(感覚に)行き着いたのは訳がある。

 私のTwitterを見ている人はもしかしたら知っているかもしれないが、去年の11月~今年の2月くらいまでわたしはずっと死にたいと思ってたし、死にたいと呟いていた。大学に行きたくなかったし、進路を間違えたと思っていた。これを「わたし①」とする。

 3月頃から気分が回復?してきて、死にたいと思うようになることが減った。最近はほとんど死にたいと思わない。大学に行きたいし、進路はそこまで間違ってないと思っている。そしてこの死にたいと思わない、もっと言えば生きるのが楽しいと思っているわたしを「わたし②」とする。

 通常ならば「わたし①」「わたし②」は「わたし(大文字)」の気分が変化した、それぞれが「わたし(大文字)」のとある状態であると考えられるだろう。

 私も今回のことがあるまではそう考えていたし、そう感じていた。「わたし①」と「わたし②」はグラデーションのような変化をしているはずだった。

 しかし今回、あまりにも「わたし①」と「わたし②」が違いすぎてしまった。記憶や性格は共通しているはずなのに、「わたし①」の状態だと、なぜ「わたし②」が死にたくないのか、生きるのが楽しいのか分からないし、「わたし②」の状態だとなぜ死にたかったのか、大学へ行きたくなかったのか全く分からなくなってしまった。

 ※大事なのは「わたし①」は「わたし②」の生きるのが楽しいと感じていた記憶をちゃんと持っているということ。にもかかわらず、なぜ生きるのが楽しかったのかが分からない。「わたし②」は「わたし①」が死にたいと感じていたのを覚えているのに、なぜあんなに死にたいと感じていたのか全く分からないということだ。
 例えば「わたし①」がいじめられていたのならば、「わたし②」はなぜ「わたし①」が死にたかったのか理解ができる。しかし、「わたし①」が死にたいと感じる理由はどこにもないのだ。あったとしても、「わたし②」のときもその理由は消えておらず、「わたし①」だけが死にたいと感じる理由にはならない。しかし、「わたし①」は死にたかった。
 つまり、「わたし①」と「わたし②」の環境、外部因子はほぼ同じであり、同じであるはずなのに、感じることが全くの真逆なのだ。

 しかも、「わたし①」が消えて「わたし②」に変わるのではなく、3月くらいは、今日は「わたし①」昨日は「わたし②」、一時間前は「わたし①」今は「わたし②」という「わたし①」と「わたし②」が混在していた。
 混在していたのだが、一時間前の「わたし①」を今の「わたし②」はどうしても理解できなかった。


 多重人格ではない。記憶も性格も一緒なのだから。(こういう理由で、頭の中のわたしを「わたし」体と記憶を共通するわたしを「私」と書くことにしたのです)

 このように混在し、真逆の性質を持ち、互いに理解し合えない「わたし①」と「わたし②」をわたし(←これは誰?)はひとりのわたしだとして取り扱うことが難しくなった。

 わたしをひとつのものだとして扱えなくなったら、どうすればよいだろう。そして、ひとつではなかったら、複数のものとして理解すればよいのだという考えに行き着いた。
 これはネットサーフィンをしていて、「心のモジュール性」という考え方を知ったことが大きい。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%80%A7


 しかし、この場合私的にはわたしが本当に(例えば脳科学的に、哲学的に)一人しかいなくても百人いてもどちらでもいいし、たぶん本当に何人いるか知るのはとても難しいか不可能だろう。ではなぜ「わたし」を複数いることにしたかと言えば、その方がわたしが理解しやすいからだ。もっと言えばその方が考えやすいからだ。とある現象を理解するために、より理解しやすい理論を採用したとも言える。そして、この場合客観的な検証はできないため、現象をより包括的に一貫してできる理論が採用されやすい。

 さて、わたしは「わたし①」と「わたし②」を別のものと考える考え方を採用した。では、わたしはその二つだけに分けられるということだろうか?答えはノーだ。

 そもそも、「わたし①」と「わたし②」を区別したわたしは誰なのかとなる。仮にこの区別したわたしを「わたしA」とすると、「わたしA」と「わたし①」と「わたし②」を区別する「わたしB」が必要になり、無限にわたしができる。
 次に、「わたし①」や「わたし②」が自分自身で自分達を区別できるとしよう。しかし、例えばわたしが生きたいとも死にたいとも思っていないとき、お腹すいたと考えているとき、本を読んでるとき、わたしがわたしを自覚さえしていないとき、それらは全て「わたし①」と「わたし②」に区別することができるだろうか?無理矢理しようと思えばできるだろうが、これは無理矢理のこじつけに近いと思われる。
 まず、「わたし①」と「わたし②」の定義がすごくあやふやだ。「わたし①」のとき、つまり死にたくて死にたくてたまらない状態でも、一瞬くらい死にたいということを思わずに、食べたパンが美味しいと感じることはある。
 ここで、「わたし」が複数あるという考えを少し広げる。「わたし①」や「わたし②」のときでも、他の「(パンが食べたい)わたし③」「(ぼーっとしてる)わたし④」「(夕日に感動している)わたし⑤」……と数多くのわたしが同時多発的に、ぽんぽんと生まれたり、消えたりしているという考えだ。もちろん、わたしが1つしかないときだってあるし、たぶんそういうときが(最近は)多い。

 簡単に言ってしまえば、私の中に出てくる感情や思いや意識をひとつのわたしが変化していると考えるのではなく、ジャグジーの中の泡のようにそれぞれ個別のわたしであると考えるのだ。

 私の中のわたしの変化は多種多様で、唐突で、同時に二つの感情がでてくるなんか希ではなく、ひとつのわたしが全てを管理していると考えるのは(わたしは)無理がある。ジャグジーの泡は生まれて、消えて、また生まれる。それを管理するものは何もない。

 わたしをわたしだと認識さえできないわたしも多いとする。例えば、夢中で本を読んでるとき私の中のどこにわたしがいるのか。我を忘れるというのは、どういうことなのか。

 たぶん、感情とか意識とか直感とか世の中には良い言葉が溢れているが、わたし語で言えばそれは全てわたしと言ってしまった方がわたしは理解しやすかった。
(こういうのを言語内翻訳というのでしょうか???)

 さて、わたしはたくさんいる。そう思えば、わたし①とわたし②が互いに理解できないのも理解できる。

 では、これを書いているわたしは何なのかと言えば、比較的統一されたわたしであると言える。しかし、このわたしはブログを書きたいと意欲を持っていて、本は読みたくないと思っている。特徴がある。昨日、ひたすら本を読んでいたいと思っていたわたしとは違う。一方で、複数のわたしの境界がなくなることだってあると思う。
 突然、「死にたい」と思うのは、わたしが不連続、同時多発的に発生するということで理由付けしてみて、「わたし」は突然死にたいと思う不安に対抗するのだ。

 わたしが1つしかないときだって多い。人と話しているときなんかは、わたしは私でありわたしで一人だ。その方が私と連携かとりやすいのではと考えている。

 ここでひとつ不思議が出てくる。なぜわたしはたくさんいるのに私はひとつなのか。これは、ある意味当然のことだ。わたしがわたしを勝手に複数にしたのだから。しかし、疑問は疑問として宙に浮く。

つまり、わたしは誰なのか?なぜ私なのか、と。
(この疑問は池田晶子の本を読んだから沸いて出たとも言える)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%99%B6%E5%AD%90_(%E6%96%87%E7%AD%86%E5%AE%B6)

 わたしのことについてばかり書いた。たくさんおしゃべりした気分だ。少し満足。

 わたしが複数いるという考えは、今のわたしとここ数ヵ月の私の記憶に保持されただけの考えだ。これから様々な経験をして、本を読んだり、人の意見を聞いたりして変わっていくだろう。




 「この文章は空が青いと思うことのようなものだ。つまり感想だ。感想を否定はしない。例え空が青いということが何人の人に思われてきたとして、陳腐な感想だとしても、わたしはわたしがその感想を持ったことに価値を見いだすからだ。
 しかし、同時に空がなぜ青いのか。他の人はどのような感想を言っているのか。空の色は青だけなのか。空の色は本当に青か。空の色の表し方など、もっと深くに、体系だっていうことが学問と呼ばれるものにちかいのかなと。感想と学問に優劣などないが、私は学問もしてみたいなと。
もっと文献を調べたりして。体系化して。と。」
↑の鍵かっこは過去のメモ帳に残っていた。このただのわたしに対する考えはただのわたしの感想だといのは同感だ。体系化はまあ、やらなくていいかなとも思うが、本はもっと読みたいなと思っている。


 おしゃべりなわたしより