さはらやの倉庫 短歌と愚痴と雑記

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なぜ生きているのか 雑記

 掃除をするたびに思う。なぜ二三日後には埃が溜まっているだろうに私は掃除をしているのかと。一週間後には同じように汚れてしまうのになぜ掃除をしているのかと。百年後には全て壊れてなくなっているだろうに、なぜ私はせっせと飽きもせず掃除をしているのかと。
 
 そうやって考えているうちに、そもそもなぜ私は生きているのか分からなくなる。百年後には必ず死んでいるだろうに。もしかしたら、一週間後には骨だけになっているかもしれないのに、なぜ私はせっせと飽きもせず生きているのだろうか。

 この地球だって数百億年後にはなくなっているだろうに、なぜ今存在しているのだろうか。

 しかし、私は明日、吹き溢れで汚れるかもしれない電子レンジの汚れを綺麗にしている。
それは明日になればもっと汚れてしまうから?
いや、違う。今日掃除したかしないかで一週間後にとても汚れているのは変わりはないだろう。
 ではなぜ掃除をするのか。
 それは、"今"そう、おやつと一緒に飲む豆乳を温める"今"綺麗な電子レンジを使いたいからだろう。もしくは、家族に綺麗な電子レンジを使ってもらいたいからだろう。

 私は埃っぽい部屋でも生きていけるが、父は絶対に嫌がるし、まずくしゃみを連発する。私は家族と楽しくこの家で暮らしたいので家を掃除する。一週間後に大地震が起きるとしても、私は今夜、録画していた音楽番組を父のくしゃみなしで、父と祖母とまったりしながら見ていたい。

 では、なぜ私は生きているのだろうか。明日、死んでいるかもしれないのに、なぜ私は"今"生きているのだろうか。
 それは紛れもなく"今"を生きていたいからに過ぎない。明日生きているためには今生きていないといけないというのもあるかもしれないが。
 生は点のようであり、線のようである。点と言い切れないのは、私は今日死んでしまったら明日は生きていられないからだ。
 しかし、明日を楽しみにして生きていて、今日の夜死んでしまったら、"今"生きていることに何の価値があるだろうか。そういう場合は"明日を楽しみに今を生きていた"という意味があるだろう。
 そう、私は今しか生きることができない。明日を楽しみにすることはできても、明日を生きることはできないのだ。

 これはその人その人がどれくらい長期間のタームで未来を見れるかによると思うのだが、私は未来のために今日を犠牲にして生きていたくないなと思う。未来のために今日を犠牲にすることを"今楽しめている"状況ならばいいのだが、100%未来のために生きることをしたくない。幸いながら今を生きていると、だいたいの日常が明日に地続きで繋がっているため、私は今を楽しんで生きていたいなと思う。

 明日、必ず生きていたいから、今日は死んでも生きてやる。という日も来るだろう。とにかく生きていたいと思う日も来るだろう。だが、今の私はたまに「死にたく」なって、そういう"今"を生きている。だから、たまに「死にたく」なってもいいかなと思う。こんな風に生きたいと思うことを疑いながら考えるのも私の"今"の生き方のひとつなのだから。


 片付けをしていたら、私が中学三年のころに書いたものが出てきた。詩、のような詩ではないような。
 夜中に全身が痛くてたまらなくなる恐怖に襲われて書いたのだけは覚えている。その頃から書くことは私を救っていた。恥ずかしいような、今よりまともなことを書いてあるような、不思議な気分でそれを読んだ。
 デジタルに起こしてみようかなと思ったが、手書きのそれの価値を失いたくなくてまだデジタルには起こしていない。いずれ書くかもしれない。

 あれから七年経った。何も成長していない気がするが、文を書くことをまだしていて少し安心する。

 締まりがなくなってしまったが、今日はここまで。2018/5/14 二階の部屋で 雑記