さはらやの倉庫 短歌と愚痴と雑記

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私と短歌 3

 私は短歌を詠むことで救われてきた人間だが、短歌を詠むにあたって短歌を読むことは避けて通れない。私は自分で作った短歌も三時間後には忘れてしまう人間だし、気分の進むときにしか人の短歌を読まない。しかし、私が短歌をノートに書きためておくのではなく、Twitterに投稿しているという時点で私は私の短歌を読んでもらう前提に立っており、人に短歌を読んでもらうということは人の短歌を読むということを避けて通れないと考えている。


 短歌を読むということは私にとってどういうことだろうか。短歌を詠むことは、私にとって私を救う行為だと思う。では、「読む」ことは?詠む行為に付随しているものだろうか?

 他人の短歌を読むことに未だに慣れないため、まず自分の短歌を読むことについて考えようと思う。
 私は推敲が苦手で、自分で詠んだ短歌を読み返すことも少ない。しかし、自身の過去作を読んで心を穏やかにさせたり、勇気付けられたりすることもある。そういうとき、自分の短歌は日記であることが多い気がする。ああ、この日も死にたいと思ったんだなとか、つらかったんだな、とか。アホな短歌作ってるなとか。そう、テキスト論からかけ離れた作者論で私は私の短歌を読んでいる。(だから推敲が苦手というのはあるかもしれない!)

 では、他人の短歌はどうか。もちろん、他人の短歌を作者論的に読むことは可能だ。そうやって読んでいる時も多い。職業詠を読むときは勝手に作者論的に読んでいる気がする。一方で、テキスト論的に読むときだってある。笹井宏之の短歌が好きなのだが、彼の短歌はテキスト論的に読むしかないのではないか、とも感じている。

 うーん、まず短歌を読めていないのに、短歌を読むことについて論じるのは無理があるみたいだ。

 じゃあ、なぜ私が最近、短歌を読めないかについてだけ考えよう。基本、Twitterに流れてきた短歌を読む。歌集もどきどき読む。
 まず、Twitterに流れてくる短歌が多すぎて読みきれないのがある。短歌が1首だけ流れてきて、あぁこの短歌はきっと流れて忘れ去られていくだろうな、と悲しくなることもある。私自身の短歌を重ねてのことだ。
 Twitterでたくさんリツイートといいねがされている短歌がどうにも好きになれないときがある。はっきり言って苦しい。周りの批評に流されやすい人間だがら、いいねが多くついている短歌にいいねをつけてしまう時があるが、そういうときよりも苦しい。皆が良いと言っているものの良さが分からない時の苦しさ。なんなのだろうか。皆が良いと言っていたら、自分も良いと思わなければならないと勝手に思い込んでいるのかもしれない。

 短歌をきちんと読めないので、苦しいと思っているのかもしれない。にもかかわらず、ちゃんと読もうともしていないのだが。この辺が悪循環で、どんどん短歌が読めなくなる。
 また、他人の短歌を読んで自分に還元しようとしているため苦しいのかもしれない。自分の短歌関係なく、他人の短歌を読めたときはすがすがしいほどの解放感がある。

 つまり、私はもっと「詠む」と「読む」を切り離した方がいいのかもしれない。そして、権威や周りの批評に関係なく読めるときっと楽しい。
 雑草の花を見るのが好きだ。手入れされた花を見るのも好きだ。ゴッホの絵にも二次創作の絵にも見入ることがある。私は短歌の素人で、短歌の玄人の歌を読もうとする傾向がある。それはそれできっといい。けれど、Twitterに流れてくる短歌をもっと楽しみたいのだ。私はこんな短歌作れないとか、素人の短歌を読んで何の意味になるだろうとか考えずに、ただ短歌の音と意味を楽しみたいと思うのだ。
(今、楽しめてないからよりいっそうのこと)

 最近、ネプリも出せていない。ネプリにのっていふ短歌を全て読むのが億劫だ。人の連作も読みきれない。けれどそれでも良しとして、もっと気楽に短歌を楽しみたい。

 ひどい文章の連なる記事になってしまった。お目汚しをお許しいただきたい。私と短歌(完)