さはらやの倉庫 短歌と愚痴と雑記

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短歌と私 2

 そう、私は誰かの短歌を読んで感動したとか、誰かが短歌を詠んでるから私も、などではなく、本当に勝手にひとりで短歌を作り始めたのだ。

 短歌を始めて10日後くらいにうたの日に始めて参加した。
最初の歌は

「自販機の横に立ってるごみ箱のようにひっそり役に立ちたい」

だった気がする。次席であった。投票でハートをいれなかったため、+1加点がなく次席であったが、もしハートを投票していれば薔薇であったため、調子に乗った。ほんと、調子に乗った。

 まず、家にある唯一の歌集であろう石川啄木の歌集を読んだ。好きになった。石川啄木の歌はまるでTwitterのツイートであると感じた。まず、感性が現代人である。心を叫んでいる歌が多い。石川啄木の歌は大声で朗読したくなる。海に向かって叫びたくなる。
 私はますます歌を作るようになった。

 私が歌にする内容は様々だ。
 自分が考えていること、愚痴、感じたこと、フィクション、今見ているもの、今まで見てきたもの、思い出、故人への思い、家族への思い、恋人への思い……。
 散文にして誰かに見せる勇気がないものでも、57577というオブラートに包んだらTwitterに吐き出せた。死にたいとは誰にも言えなかったのに、短歌にならいくらでもできたし、Twitterに投稿できた。
 どれだけつらいかと思う度、私よりずっとつらい人がいると思って言葉にできなかったつらさを、短歌でならどれだけでもつらいと言えた。
 
 短歌は私そのものであり、私とは全く別個の独立した作品であった。だからこそ、短歌でならばどんなことでも言えた。

 短歌を作れない日は便秘しているような気分であった。

 しばらくして、自分のTwitterを家族や友達や部活の人に教えた。少しハイになっていたのは否めないが、本当の私、いつも死にたいともがいてる私を知って欲しかった。普段の会話では決して死にたいなんて言えないが、Twitterをフォローしてもらうことで、私の説明になればいいなと思った。
 つまり、私の短歌アカはリア垢でもある。

 そう、本当に短歌は私そのものであり、私とは全く別個の独立した作品であった。

 短歌を始めた後も、何度も辛くなって大学に行かない時がでてきた。短歌が無ければ、私はもっとひどい潰れ方をしていたかもしれないと思う。死にたいと言えたからこそ、死ななかったのかもしれない。短歌は私の透明マントでもあった。私を曝して、かつ私を隠してくれるもの。今さら短歌を手放せないというのが現状かもしれない。



 ここまで、私は短歌を詠むことばかりを語ってきた。当たり前かも知れない。私は短歌を詠むことで救われてきたのだから。

 ところで最近、Twitterで回ってくる短歌、しかもいいねがたくさんついている短歌が素敵に思えなくて苦しい。今までは短歌を詠むと同時に読むことも自然に出来てきたのだが、最近それが出来ない。


 またもや長くなってしまったため、この記事はここで終わろうと思う。次は書けるのならば、私と短歌を読むことに関して書こうと思う。