さはらやの倉庫 短歌と愚痴と雑記

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愚痴と少しだけ雑記

 雨の日の夜の夜の運転は視界が悪いから好きではない。けれど、渋滞の対向車線の車のヘヘッドライトが濡れた車道に反射してどれが光源か分からないほど光っているのは好きだ。繁華街だと宝石箱をひっくり返したみたいに、ヘッドライトと街の灯りを濡れた車道が反射する。
 運転する上では見にくいこと極まりないのだが、あんなに煌めく車道は雨の日以外では見れない。

 もともと夜の対向車線のヘッドライトが好きで、だから、雨の日だともっと好きになる。

 

 雨の音がうるさい。生きているのは非効率でハイコストだ。どれだけお金をかけないように生きてもお金は必要で、いっそのこと死んだらお金がかからないのになぁと思うが、葬式代もバカにならないため、やっぱり生きているのは難儀なことだと思う。
 自分の養育費全部を計算して、泣きそうになるのをやめたい。宝くじが当たったらいいのに。全うに親孝行できる気がしない。その前に、祖母が死んでしまう気がする。祖父はもう死んでしまった。
 まず、恩を返す前に全うに生きていける自信もない。なんとなくなら、生きていけるだろうか。ちゃんとしなきゃと思うと、余計にちゃんとできなくなる。


 正しいとはなんだろうか。
 私が思うに、正しいとはその判断をされるもの、行動などが未来に与える影響、効果を今の時点で考えて、その影響、効果がプラスである場合に、今の時点でのもの、行動が正しいと言われるのではないだろうか。
 つまり、未来の影響を考えなければならない。そして、その未来の影響がプラスかマイナスかを判断する価値基準を持っていなくては、正しいことを判断することができない。

 未来ってそんな簡単に分かるものだろうか。そもそも、私は価値判断の基準を持っているだろうか。
 無意識的には持っているだろうが、意識的には持っていないも同然で、持っていたとしても周りに流されたものばかりな気がする。
 それなのに、正しいかどうか気になって、怖くなって、を繰り返してる。
 正しいか気になるのであれば、まず価値判断の基準を持たなくてはならない。話はそれからだ。
 

 カウンセリングに行っている。カウンセリングで話を聞いてもらうと、心が軽くなって、話を聞いてもらうということの効果を感じる。誰にも言えない愚痴を言うって、心を軽くするんだなと思うと、愚痴を言っている人に対して寛容になれる気がする。
 話すことは大事。私話してはいけないと思って話さないことがたくさんあるけれど、精神衛生上、話した方がいいかもしれない。
 ということで、ブログを書いている。
 
 雨の日のヘッドライトのこととか誰にも言うことないけれど、文にするだけでも違うだろうかと思って。
 もっと個人的なことはカウンセリングで話そうと思う。
 そう、誰かの愚痴を言うとその人を攻撃しているみたいで、その攻撃を誰かに咎められると恐くて、というかその人のことを、攻撃したいわけじゃなくて。などと思って愚痴れない。
 弱音を吐くと、そんな弱くてはダメだと怒られそうで弱音を吐けない。
 どこかで自分を監視している誰かがいそうで怖い。
 テンション高いときは、結構なんでもしゃべるけど。


 今は、テンション低いとき。ブログなんて書いてる。だめだなぁ。勉強か手伝いかしなきゃいけないのに。でも、手伝おうかって聞くと要らないと言われるし、勉強はテストなど差し迫ったものではない(でも、一日のノルマはこなしたいなぁ)

 とても努力が足りないので、知識不足である。英語ができない。勉強ができない。
 なのに、努力しない。とても悪循環。やればできると思っているところが余計にタチが悪い。だめだなぁ。

 今日は部屋の片付けと掃除をしたかったのに、片付けしかできなかった。ても、片付けはできた。
 家事をやると必ず「ごめんなさい」という気持ちになるのは何故だろう。本当は全部自分がやらなくちゃいけないことを、ずっと家族にやらせている罪悪感からだろうか。
 けれど、家事をやろうとすると怒られるときも多いんだよなぁ。怒られるの、嫌いなんだよなぁ。