さはらやの倉庫 短歌と愚痴と雑記

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雑記

 同じ日本語を話しているからって、話が通じるとは限らない。私の中の日本語と私のなかで外の日本語がちゃんと対応しているとは限らない。

 私は間違った日本語を使う。

 私はとても幸せな時にも死にたいと思うけど、その死にたいの意味はいわゆる死にたいの意味ではない。私が言う死にたいは自分でもよく分からない意味を持った言葉である。
 自分語、とでも呼ぼうか。自分の感覚に合った言葉を使うとき、それは必ずしも自分の属している団体が主に使う言語の意味と一致するとは限らない。
 自分の中のルールは外のルールとちがっていることがある。(もちろん、中のルールは外のルールを元につくられたのだけれども)

 それと、家族の中でだけ伝わる言葉、仲間内でだけ伝わる言葉、とある団体でだけ伝わる言葉。単語自体が創作されることもあるし、既存の単語に新たな意味が付け加わることもある。
 たぶんこういうのが言語の発生に深く関わっていて、言語学をやったりすると面白いだろうなと思った。
 本を借りてこようかな。

 少し話は違うが、

 話したら伝わることもあるけれど、話しても伝わらないこともある。
 つらいって言っても、どのくらいつらいのかは誰にも分からない。例え比喩を使っても、その人の状況を知っていても、それは推測の域を出ない。

 自分には絶対に分からないことがあるということを知る。当たり前かも知れないけれど、私自身のことだって、私には絶対に分からないかも知れないのだ。自分のことは100%分かると思っていると、分からない時に苦しいから、自分のことは自分でも分からないことがあると肝に銘じておきたい。


 私は人体の仕組みを知らなかったら、体の中には煙が入っていると感じるし、私は私の心臓を見たことがない。けれども私は心臓を持っている。このことをとても不思議に思う。事実とは何であるのだろうか。私が見たことも聞いたことも感じたこともなくても事実は事実で、では、誰も見たことも聞いたことも感じたこともなくても事実は事実なのだろうか。
 事実は認識者を必要としないのだろうか。
 シュレディンガーの猫は生きながら死んでおり、死にながら生きており、人だってそんな感じなのだろうか。
 一人でいるときに生きていることは私しか知らない。

 ちょっと飛ぶが、私って何だろう。
 私とは何かを考えると、暇を潰せるので暇な人への暇潰し方法としてはおすすめだ。考える気力以外は何も要らない。