さはらやの倉庫 短歌と愚痴と雑記

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短編 雨の日しか来ない人

雨の日しか来ない人


 私は海の近くの掘っ建て小屋にひとりで住んでいる。海で魚を採って、山で山菜を採って、畑で野菜を育てて暮らしている。たまに街から呉服問屋の道楽息子が訪ねてきて話相手をする。その人のことは嫌いではないが奥さんがとても綺麗だということは知っていて私も分別がある大人だった。

 ある日、嵐の夜に寝ていると戸が叩かれた。怖々と開けてみれば髪も髭もぼさぼさでびしょ濡れのぼろぼろの男の人が立っていた。
「一晩の宿に納屋を貸してくれませんか」
男は掠れた声でそう言った。私は怖くて納屋の方向を指差して頷いた。彼は納屋へ入っていった。
 朝になって納屋に行くともう男はいなかった。夢かと思ったが納屋の中が濡れていた。
 次の嵐の夜もその男はやって来た。髪も髭も整えた顔は私の好みであった。体は濡れていた。
「一晩の宿に納屋を貸してくれませんか」
男の声は低く優しく波の音のようだった。私は頷くと納屋の方を指差した。
 その次の嵐もまた次の嵐も男はやって来た。そして朝になればどこかへ消えていた。私は今までと同じように生活をしていたが、いつしかその男が来るのを待ちわびるようになった。道楽息子との会話は少しだけ上の空になって、そのうちかみさんが煩いからとうちには来なくなった。
 男が嵐の日だけではなく雨の日にも来るようになった。私たちは短い会話をして、男は納屋に寝た。
「納屋の寝心地はいいですか」
「良いです」
そんな馬鹿みたいな会話で私は浮かれたり沈んだりして海を漂う漂流物みたいに生きるようになった。
「どこから来たんですか」
ある日私は男に尋ねた。
「海から」
男はいつもぶっきらぼうだ。
「いつもびしょ濡れなので風邪ひかんように気いつけてくださいね」
私がそう言うと男が突然私を抱き締めた。私はびくりと体を震わせたがそのまま抱き締められた。そして驚いた。見るからに男の服は濡れているのに私が触れても私の手も服も濡れていないのだ。
「私はワタツと言います」
男が初めて自分から喋った。私の耳元を掠めたその声は雨の日の波の音に似ていた。

 次の日、朝起きるとワタツはいなかった。家の床だけが濡れていた。それから雨の日にワタツはやって来て、私の寝ている間に家の床を濡らして帰っていった。そういう日、私はよく花の布団で寝る夢を見た。

 その雨の日もワタツがやって来た。私はいつものように寝てしまっていたが、物音で目が覚めた。ワタツが家の戸を開けて外に出るところだった。私はこっそり起き上がるとワタツの後を追った。ワタツは小舟に乗って海に出ようとしていた。私はその小舟に飛び乗ったがワタツは私がまるで見えないかのように振り向きもせずに小舟を出した。ワタツが小舟を漕ぐ間、私はずっとワタツと空を見ていた。ワタツは本当に目の前にいる私に気づいていないようだった。
 小舟がとある小島に着いた。岩しかないような小さな島だ。ワタツは舟を繋いで岩を登っていく。私もそれに続く。洞窟のような場所に来た。ワタツは奥で誰かと話していた。私の知らない言葉だった。ふいにワタツが振り返り手招きをした。私は何かに取り憑かれたようにふらふらとワタツの元へ行った。ワタツの前には美しい女性がいた。私を見るとふわりと微笑んだので私はぎこちなくお辞儀をした。
「あなたの名前を教えてくれますか」
ワタツが私に聞いた。そうだ、私はワタツに名前さえ教えていなかった。
「私の名は……」
名前を言おうとして私は困ってしまった。自分の名前を忘れてしまったのだ。自分に名前があったのかさえ覚えていない。正直に覚えていませんと答えるとワタツが私の肩を抱いた。
「愛しい人だ」
ワタツは女の人にお辞儀をしてから私を連れて洞窟から出た。外は雨だった。私は隣を歩いているワタツを見上げた。ワタツは私を抱きかかえて小舟まで戻った。
「私は愛しい人なのですか」
「そう、あなたは私にとって愛しい人だ」
「雨の夜しか会えなくても?」
私の涙は堰を切ったように溢れ出した。さっきの女の人はだれ?あなたにとって私は何なの?あなたは誰?私の名前は?私が彼に問いただしたいことの代わりに次から次へと涙が溢れ出した。ワタツは困ったような顔をして私の手を取る。そんな顔をさせたいわけではなかったのに。
「雨の日だけでは駄目か」
私は首を横に振る。雨の日だけでもワタツに会えるのは嬉しい。しかし、それ以外の日もワタツに会いたくなってしまった。ワタツは私を抱き締めた。私はその腕の中でずっと泣き続けた。
 私の涙が枯れた頃、辺りは闇に包まれた。雨はまだ降っている。ワタツは小舟を漕ぎ出して私の家のある浜辺へと向かった。その夜はふたりともびしょ濡れでふたりとも納屋に寝た。
 その日から、ワタツは相変わらず雨の日の夜だけにやって来たが朝は私の作った簡素な朝食を食べてから海へ戻るようになった。少しだけ会話も多くなった。
「筍の季節か」
「はい、裏山でたくさん採れました」
ワタツは普段何を食べているのだろうと思ったが、何も食べていないような気がした。私の作った朝食はワタツの何になっているのだろうか。
「私が次の雨の日からもう来なくなったらあなたはどうしますか」
唐突にそう聞かれて、私はまだ名前を思い出せていないなと思った。
「どうするって……」
ワタツが来なくなったら私はどうするのだろう。すぐに死ぬかもしれないし、普通に生き続けるかもしれない。
「……分かりません。もう来ないのですか」
「いいや、来るよ。聞いてみただけだ」
珍しいこともあるものだ。ワタツはそういう戯れをあまり言わないと思っていた。
「私はあなたのことを知らないし、あなたは私のことを知らない」
今日はワタツがよく喋る。私は箸を置いてそれを聞いた。
「それでもいいし、そうじゃなくてもいい。あなたに名前がなくてもいいし、あってもいい。私にもだ」
「私にはよく分かりません」
まるで禅問答のようだと思った。ワタツは微笑んで筍を食べた。
「そういうことだ」
ますます意味が分からなくて首をかしげるとワタツが笑った。笑うと顔が少し幼く見える。
「そうやって生きていくということですか」
私はワタツがもう少し笑ったままでいて欲しくてそう言った。ワタツは少し驚いてまた笑ってくれた。
「そう、そういうことだ。あなたは賢い」
ワタツは朝御飯を食べ終わって海へ帰っていった。
 ワタツが初めて家を訪ねて来たときからもう三度季節が巡った。その時から私は歳をとっていない気がする。そういうものかと思った。
「あなたは何でも受け入れる。私のことも名前のことも変化のことも」
ワタツは朝御飯の時、たまに難しいことを言う。
「そうですかねぇ」
私の気の抜けたような返事にワタツが笑った。ワタツが笑うと嬉しい。
「これから毎日雨を降らせようか」
ワタツが笑いながら言う。
「それじゃあ毎日会えますね。けれど駄目ですよお仕事はきちんとしないと」
私は楽しそうに、それでいて少しだけ咎めるように言った。私はワタツが家に来ている時以外のことなんてこれっぽっちも知らないけれども、ちゃんと返す言葉を知っていた。
「そうだな」
きっとこれから彼のワタツという名前も消えていく気がした。ワタツは必要な名前だったが、もう役目は終わった。
「いつあなたを迎えようか」
「いつでも」
「波の音は好きか」
「はい、とても」
だってあなたの声の音だから、と思ったが口には出さなかった。