読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

さはらやのブログ 詩と短歌 時々自分のこと

詩と短歌とその他もろもろのブログ twitter @0ya5udon

エッセイ Twitterのこと

Twitterのこと

この文章を誰が読んでいるかは分からないけれど、自分の中の整理としてTwitterについて少し書こうと思います。

私は去年の冬に体調をくずして、半年休学してまた今復学しています。病気は不安障害とパニック障害うつ病を足して3で割ったみたいな感じというと分かりやすいのかも知れません。医者には典型的じゃないねと何度も言われました。

さて、私がTwitterを始めたのは今年の6月。短歌を始めたいと思い、その短歌を発表するツールとして、また短歌を知るツールとしてTwitterを始めました。とりあえず、短歌のbotや短歌をやっている人をフォローしまくって、毎日毎日短歌を呟きまくりました。そこからうたの日というサイトも知って、今ではフォロワーさんと少しは会話できるまでになりました。

そもそもなぜ私が短歌を始めたかと言うと、ある日

死にたいに代わる言葉を見つけてよ

という575が頭のなかをよぎったのが始まりです。
575なら俳句だけど、これには季語がない。なら77をつけて短歌にすばいい!という思いつきで短歌を作りました

死にたいに代わる言葉を見つけてよ私はあなたと生きていたいの

これが私の最初の短歌です。
その頃は病気のせいもあって「死にたい」が頭のなかを永遠にリピートしていて本当に嫌気がさしていました。

別にほんとうに死にたい訳じゃなくて、なんというか生きるよりも死ぬ方がとても魅力的に見えるのです。(今も少しそう)死にたいという言葉がすごく美味しそうなパンのように、魅力的に思えるのです。

でも、私には大切な家族や恋人や友人や仲間がいるし、私は生きていたい。
リピートする死にたいに代わることばを誰か見つけてよという気持ちでした。

実際に誰かに死にたいと言ったことは一回も無くて、死にたいと頭のなかでリピートしている自分と普段元気に普通にしている自分とが分裂しそうでした。
どこかにこの死にたい気持ちを出したかった。

短歌は私の負の気持ちを出すのにとても最適なツールでした。
私の知っている人は誰もいないところでどれだけでも弱音をはけるから

死にたいと言っても誰も大袈裟に心配しないし、まず短歌は短歌として作品だからどれだけ私の心のなかを暴露しても誰も何も言わないし。

そのうち短歌がツールとしてではなく、短歌自体が面白くなってきました。ツールとしての短歌もいいけど、短歌そのものも好きになりました。
うたの日で薔薇をとれるようになり、知っている人に私の短歌を見せたいという思いが強くなりました。

だから、私は私のTwitterを友達や恋人や親にTwitterやってるんやてーと言うようになりました。
私が病気になったのは自分のことをまったくまわりには知らせなかったのも一因かなと思っていることもあり、Twitterも私の一面だと思って知って欲しい。

死にたいと言わない私と死にたいと言っている私両方がいることを知って欲しい。と思いました。

今でも、知人が見ていることを考えるとTwitterで短歌を流すのは恥ずかしいです。
痛いやつだと思われているかもしれません。というか、たぶん思われてる……

でも、それも私なんです。
死にたい、死にたいにと言っているのも私だし、普段のボケーっとしているのも私です。

やっとその二つの私が私のなかで共存し始めたかなと思ってこの文章を書きました。また分裂するかもしれないけど。

こんな感じで、Twitterは普段の私と裏の私しか知らないはずの私を繋ぐ役目をしてくれています。
本当は友達に打ち明けたりできるといいけど、なかなか言葉が選びずらかったりして私にはハードルが高いので、Twitterで心情公開という、ある意味罰ゲームのような恥ずかしい方式をとっていますが、後悔はありません。

これを読んでくれている人もいるかどうか分からないけれど、こんな感じで私は生きています。