さはらやの倉庫 短歌と愚痴と雑記

短歌と愚痴と雑記 twitter @0ya5udon

雑記(自分を責める自分について)

向坂くじらさんのしょぼい喫茶店にとても行きたい。
東京は遠いので行けないけれど。

けれど不思議だ。小中高で月曜日に本当に行きたくないと思ったのは数えるくらいしかない。
というか、かなりあったかもしれないけれど、忘れる程度のことだ。
学校はある意味サバイバルだったが、私はそれに勝ち残れたと思っていた。
学校は楽しい思い出の方がずっと多い。
なのに、しょぼい喫茶店に行きたい。
私なんか行っては行けないという気さえするのに。

あぁでも、大学を二留して、今も休学中の私はすさまじい不登校中とも呼べるのか。

あぁ、この文章を読み返して私は不登校をダメなことだと思っているとバレた。
文章を書くって、自分の中の偏見をあぶり出している行為みたいだ。
この文章もたぶん偏見に満ちている。

家族は好きだ。
友達も好きだ。
部活の仲間も好きだ。
恋人は大好きだ。

とても恵まれた環境に育って
なのになぜ、ちゃんと育てなかったのかと自分を責めるときがある。

あぁ、これじゃあ誰かをどうしても好きになれない人を責めているみたいじゃないか。
違うんだ。
たまたま私のまわりにはいい人が多かったという偶然を言っているんだ。

自分を責めるのはずっとじゃない
たまにだ。

それは生産的な考えじゃないし
それはネガティブなバイアスがかかり過ぎてるし
それを考える時間はほんの少しで、自分のこと好きだなと感じる時間だって持っている。

けれど、やはり
私は生まれなければ良かったと思ってしまう
こう考えることさえ罪だと思っている

私が悪くなった原因が私そのもの以外に見つからない
悪くなったというのは、突然つらくなるということ

誰のせいにもできない

つらい

誰かのせいにしたいというわけではないが
心の奥ではそう思っているのかもしれない

突然気分が落ち込む
軽い気持ちで死にたくなる

虐待や貧困の話を聞くと
私が虐待を受けずに、貧困も知らずに生きてきてごめんなさいと思う
そう思うことさえダメだと思うけれど、思ってしまう
私は恵まれているのに、ちゃんと育ててもらったのに
ちゃんと育てなかった

ちゃんと育てないと悪いのか?
違う
誰も悪いとか正しいとか良いとか言えない
そんな確かなこと私には分からない
ただ、ちゃんと育てなかった自分を悪いことだと責める自分がいるということだ

ごめんなさい
ごめんなさい

こんなこと四六時中思っているわけじゃな
けれど、たまにすぐに取り出せる場所にこのわたしは住んでいる

わたしにはわたしがたくさんいて
ソーダ水の中の泡のように生まれたり消えたりしているのだけれど
なんでそういうとあるわたしが生まれたり消えたりするのかさっぱり分からない

ソーダ水の中の泡の生まれるタイミングも消えるタイミングも、見ているわたしには分からないように

けれど、ソーダ水の泡はたぶん物理法則に従っているはずで
わたしもわたしが従うなんらかの法則を見つけようと必死になったり、諦めたりする。

つらい
嬉しい
空は
美しく
絶望の色だ

塔新人賞応募作 夕焼けと朝焼け  (予選通過)

塔新人賞に応募した連作です。
栗木さんに一票を頂けました。



夕焼けと朝焼け       佐原八重


赤と青のセロハン重ね見るように天井にへばりつく夕焼け

ラプソディインブルー使わない鉛筆たちが聞き惚れる旋律

学生の万年床に抱き枕私より優れている予感

一限を布団の中で青空が良心を叩く音を聞いている

遠距離で四年目の恋しばらくはダメな私を見せなくていい

五年目でコートのボタンは掛け違えられることなくもうすぐ取れる

そんなにも心配しないで携帯の予測変換には大丈夫

もくもくと煙の出ない煙突の下を歩いた黒スニーカー

出口まで緑色っぽい人がいてあの人はちゃんと逃げれただろうか

考える人のうなじにフリスビーを当てた私ではなく北風が

鼻水をすすると母に怒られた記憶を元にティッシュを探す

柔らかいティッシュの箱を持ち歩き気を使われることを知る鼻

母からの留守番電話(Googleのドライブはカーナビができるの?)

一年で伸びた前髪耳にかけ教え子に通分を教える

何回も通分をして教え子と私の公倍数を見つける

靴紐を結ぶとアニメの主題歌が自動で流れる金曜の朝

近眼でオリオン探す駐車場見えなかったと君に言うため

たましいは食堂前の日溜まりのベンチに時々置いてあります

五百キロ 二人にとって空港は少ししんどいどこでもドアだ

がらがらの到着ロビーは白っぽく君の鞄がいつもの青だ

いつ見てもかわいいねって母からのセーターを褒められて頷く

ガソリンをセルフで入れることに慣れこんなところだけ大人になった

事実のみ(それはあの日の夕焼けも試験結果も)私のものだ

型落ちのウォークマンから滑り出すピアノ、サックス、寝る前の夢

ブルーレイディスクを壊す母といてやたらと機械に詳しくなった

オタクには譲れぬものがあるけれど九割は譲り合いで生きている

マフラーとネックウォーマー並ばせて冬の公園の中の逢瀬

風邪でない喉の痛みと吐く息の湿度と君の腕の温もり

日常に戻って君もしばらくはこの寂しさを味わえばいい

私たちは繋がっている夕焼けと朝焼けみたいに想いの中で

辞書

自分だけが分かる、自分のための辞書


※書いた言葉は必ず国語辞典で確認する。(みんな語としての意味を知る)

仕事
自分で決めるもの


生きている人は誰も経験をしたことがなく、生きている人の誰もが経験をするもの
憧れるもの
甘美な響きを持つ

図書館
本が無料で読めたり借りれたりする場所
椅子や机が多くある
図書館に癒しを求めるものもいる


遠そうで最も近い人

祖母
最も近くにいたい人


世界であると思った人
人間の男である

祖父
もう永遠に会えない人
もう一度会いたい人
権威の象徴

サンダル
夏に履く履き物
帰ってくると足の裏を拭かなければならない
かわいい

ジーパン
便利なズボン
とりあえず履いておけば様になる

腕時計
腕に巻く時計
時間を確認するもの
着けていると自分が社会に馴染めるのではと思えるもの

市役所
大きな建物

クレーン
工事中の空にあるもの

ホームセンター
近くに新しくできると行きたくなる場所
動物が売られている


言語が書かれた紙の束
時々、生物のような振る舞いをする
言語は様々なことにつて書かれている
→文学
→書く(動詞)

文学
人が言語を使い行う活動
→言語

書く(動詞)
人が言語を何かの媒体に印すこと
媒体は紙、土、木、液晶画面など
→描く

言語
言葉。
人が意思疏通などに用いる音声とその音声を記号で記したもの
よく分からない
規則性があることが多い

雑記 (記憶とか私とか)

 なんとなくつまらなくて、読書も勉強もTwitterもしたくなくて、あえて言えばおしゃべりがしたいのでブログを書きます。

 以前から書きたい内容があったけど、書けてなかったのでそのことを。

 注意※ここでは意識や感覚や感情の固有なものを「わたし」と表現し、体、記憶の固有なものを「私」と表現しています。「わたし」は複数存在し、「私」はひとつであるという考えの元に書いています。(表記の理由は下の方に書いてあります)


 1ヶ月ほど前に、以下のような連ツイをしました。

 高安国世のアンソロジーが買えたので読んでる。平行世界の自分からの手紙みたいな気持ちで読んだり、VR体験している気分で読んだりしていて時々泣きそうになる。無意識に作者(主体)に、"とある"わたしを当てはめていた。私の記憶みたいな部分から体が震える気がした。
 決して、高安国世と境遇が似ているとかではなくて、もう一人のわたしをそこに見つけた感じ。もしくは、映画の世界に入り込んだ感じ。
(そのふたつは全く違う読み方なのですが、高安国世という人を意識してという所と、私の記憶を引っ張り出して読んでいるというところで共通です。)


 それとは別に、作者を考えず三十一文字だけを意識して読んだりもしている。同じ歌なのに自分の違う部分が震える気がした。私の記憶とは全く別の部分。無意識に近い心みたいなわたしの部分が。それは本屋で詩を立ち読みしているときと同じ感覚で、言葉そのものを読んでいるのかなと思った。 (これをテキスト論的に読んでいるとしたいが、そこまでちゃんと読んでない。言葉の音、意味、三十一文字に対してのみの目的そのものに驚いて震える感覚です。特に言葉の音が好き。)


 最近、わたしはなぜ私という肉体に有限的に発生しているのか謎で(昔の私がこれを聞いたら頭おかしいんちゃう?と言いそう)けれど、高安国世の歌を2通りの(記憶を介してと記憶を介さないで)読み方で読んで、その2通りの震え方が私という肉体で重なって、あぁ私が一人で良かったと思えた。

 なんか、ほんと頭おかしいんちゃう?と言われそうでブログにだけ書こうとしたけど、まとまらないのでTwitterに吐き出します。わたしが一つに重なるような震える体験をして、私が1つの肉体を持って生きていて良かったと思えた。最近は苦しいことの方が多かったのでこれは私の賛歌だなと思った。


 こんなことをTwitterで書いて、いいねをいくらかもらったので少し嬉しかった。


 ここで、二通りの震え方と言っているが、つまりそれは感じ方の違う「わたし」が二人以上「私」の
中に同居しているということです。

 「わたし」が二人以上いると言うと、いやわたし(一人称)は一人でしょと思われるかもしれない。事実、わたしもそう思う。けれど、わたしがこういう考えに(感覚に)行き着いたのは訳がある。

 私のTwitterを見ている人はもしかしたら知っているかもしれないが、去年の11月~今年の2月くらいまでわたしはずっと死にたいと思ってたし、死にたいと呟いていた。大学に行きたくなかったし、進路を間違えたと思っていた。これを「わたし①」とする。

 3月頃から気分が回復?してきて、死にたいと思うようになることが減った。最近はほとんど死にたいと思わない。大学に行きたいし、進路はそこまで間違ってないと思っている。そしてこの死にたいと思わない、もっと言えば生きるのが楽しいと思っているわたしを「わたし②」とする。

 通常ならば「わたし①」「わたし②」は「わたし(大文字)」の気分が変化した、それぞれが「わたし(大文字)」のとある状態であると考えられるだろう。

 私も今回のことがあるまではそう考えていたし、そう感じていた。「わたし①」と「わたし②」はグラデーションのような変化をしているはずだった。

 しかし今回、あまりにも「わたし①」と「わたし②」が違いすぎてしまった。記憶や性格は共通しているはずなのに、「わたし①」の状態だと、なぜ「わたし②」が死にたくないのか、生きるのが楽しいのか分からないし、「わたし②」の状態だとなぜ死にたかったのか、大学へ行きたくなかったのか全く分からなくなってしまった。

 ※大事なのは「わたし①」は「わたし②」の生きるのが楽しいと感じていた記憶をちゃんと持っているということ。にもかかわらず、なぜ生きるのが楽しかったのかが分からない。「わたし②」は「わたし①」が死にたいと感じていたのを覚えているのに、なぜあんなに死にたいと感じていたのか全く分からないということだ。
 例えば「わたし①」がいじめられていたのならば、「わたし②」はなぜ「わたし①」が死にたかったのか理解ができる。しかし、「わたし①」が死にたいと感じる理由はどこにもないのだ。あったとしても、「わたし②」のときもその理由は消えておらず、「わたし①」だけが死にたいと感じる理由にはならない。しかし、「わたし①」は死にたかった。
 つまり、「わたし①」と「わたし②」の環境、外部因子はほぼ同じであり、同じであるはずなのに、感じることが全くの真逆なのだ。

 しかも、「わたし①」が消えて「わたし②」に変わるのではなく、3月くらいは、今日は「わたし①」昨日は「わたし②」、一時間前は「わたし①」今は「わたし②」という「わたし①」と「わたし②」が混在していた。
 混在していたのだが、一時間前の「わたし①」を今の「わたし②」はどうしても理解できなかった。


 多重人格ではない。記憶も性格も一緒なのだから。(こういう理由で、頭の中のわたしを「わたし」体と記憶を共通するわたしを「私」と書くことにしたのです)

 このように混在し、真逆の性質を持ち、互いに理解し合えない「わたし①」と「わたし②」をわたし(←これは誰?)はひとりのわたしだとして取り扱うことが難しくなった。

 わたしをひとつのものだとして扱えなくなったら、どうすればよいだろう。そして、ひとつではなかったら、複数のものとして理解すればよいのだという考えに行き着いた。
 これはネットサーフィンをしていて、「心のモジュール性」という考え方を知ったことが大きい。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%80%A7


 しかし、この場合私的にはわたしが本当に(例えば脳科学的に、哲学的に)一人しかいなくても百人いてもどちらでもいいし、たぶん本当に何人いるか知るのはとても難しいか不可能だろう。ではなぜ「わたし」を複数いることにしたかと言えば、その方がわたしが理解しやすいからだ。もっと言えばその方が考えやすいからだ。とある現象を理解するために、より理解しやすい理論を採用したとも言える。そして、この場合客観的な検証はできないため、現象をより包括的に一貫してできる理論が採用されやすい。

 さて、わたしは「わたし①」と「わたし②」を別のものと考える考え方を採用した。では、わたしはその二つだけに分けられるということだろうか?答えはノーだ。

 そもそも、「わたし①」と「わたし②」を区別したわたしは誰なのかとなる。仮にこの区別したわたしを「わたしA」とすると、「わたしA」と「わたし①」と「わたし②」を区別する「わたしB」が必要になり、無限にわたしができる。
 次に、「わたし①」や「わたし②」が自分自身で自分達を区別できるとしよう。しかし、例えばわたしが生きたいとも死にたいとも思っていないとき、お腹すいたと考えているとき、本を読んでるとき、わたしがわたしを自覚さえしていないとき、それらは全て「わたし①」と「わたし②」に区別することができるだろうか?無理矢理しようと思えばできるだろうが、これは無理矢理のこじつけに近いと思われる。
 まず、「わたし①」と「わたし②」の定義がすごくあやふやだ。「わたし①」のとき、つまり死にたくて死にたくてたまらない状態でも、一瞬くらい死にたいということを思わずに、食べたパンが美味しいと感じることはある。
 ここで、「わたし」が複数あるという考えを少し広げる。「わたし①」や「わたし②」のときでも、他の「(パンが食べたい)わたし③」「(ぼーっとしてる)わたし④」「(夕日に感動している)わたし⑤」……と数多くのわたしが同時多発的に、ぽんぽんと生まれたり、消えたりしているという考えだ。もちろん、わたしが1つしかないときだってあるし、たぶんそういうときが(最近は)多い。

 簡単に言ってしまえば、私の中に出てくる感情や思いや意識をひとつのわたしが変化していると考えるのではなく、ジャグジーの中の泡のようにそれぞれ個別のわたしであると考えるのだ。

 私の中のわたしの変化は多種多様で、唐突で、同時に二つの感情がでてくるなんか希ではなく、ひとつのわたしが全てを管理していると考えるのは(わたしは)無理がある。ジャグジーの泡は生まれて、消えて、また生まれる。それを管理するものは何もない。

 わたしをわたしだと認識さえできないわたしも多いとする。例えば、夢中で本を読んでるとき私の中のどこにわたしがいるのか。我を忘れるというのは、どういうことなのか。

 たぶん、感情とか意識とか直感とか世の中には良い言葉が溢れているが、わたし語で言えばそれは全てわたしと言ってしまった方がわたしは理解しやすかった。
(こういうのを言語内翻訳というのでしょうか???)

 さて、わたしはたくさんいる。そう思えば、わたし①とわたし②が互いに理解できないのも理解できる。

 では、これを書いているわたしは何なのかと言えば、比較的統一されたわたしであると言える。しかし、このわたしはブログを書きたいと意欲を持っていて、本は読みたくないと思っている。特徴がある。昨日、ひたすら本を読んでいたいと思っていたわたしとは違う。一方で、複数のわたしの境界がなくなることだってあると思う。
 突然、「死にたい」と思うのは、わたしが不連続、同時多発的に発生するということで理由付けしてみて、「わたし」は突然死にたいと思う不安に対抗するのだ。

 わたしが1つしかないときだって多い。人と話しているときなんかは、わたしは私でありわたしで一人だ。その方が私と連携かとりやすいのではと考えている。

 ここでひとつ不思議が出てくる。なぜわたしはたくさんいるのに私はひとつなのか。これは、ある意味当然のことだ。わたしがわたしを勝手に複数にしたのだから。しかし、疑問は疑問として宙に浮く。

つまり、わたしは誰なのか?なぜ私なのか、と。
(この疑問は池田晶子の本を読んだから沸いて出たとも言える)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%99%B6%E5%AD%90_(%E6%96%87%E7%AD%86%E5%AE%B6)

 わたしのことについてばかり書いた。たくさんおしゃべりした気分だ。少し満足。

 わたしが複数いるという考えは、今のわたしとここ数ヵ月の私の記憶に保持されただけの考えだ。これから様々な経験をして、本を読んだり、人の意見を聞いたりして変わっていくだろう。




 「この文章は空が青いと思うことのようなものだ。つまり感想だ。感想を否定はしない。例え空が青いということが何人の人に思われてきたとして、陳腐な感想だとしても、わたしはわたしがその感想を持ったことに価値を見いだすからだ。
 しかし、同時に空がなぜ青いのか。他の人はどのような感想を言っているのか。空の色は青だけなのか。空の色は本当に青か。空の色の表し方など、もっと深くに、体系だっていうことが学問と呼ばれるものにちかいのかなと。感想と学問に優劣などないが、私は学問もしてみたいなと。
もっと文献を調べたりして。体系化して。と。」
↑の鍵かっこは過去のメモ帳に残っていた。このただのわたしに対する考えはただのわたしの感想だといのは同感だ。体系化はまあ、やらなくていいかなとも思うが、本はもっと読みたいなと思っている。


 おしゃべりなわたしより

高安国世の短歌

鉄骨のかぎる一劃一劃に予感の如き夕映がある         『虚像の鳩』

ここばかり不思議に人の絶えながら風吹きぬける0(レイ)番乗場 『虚像の鳩』

広場すべて速度と変る一瞬をゆらゆらと錯覚の如く自転車    『虚像の鳩』

次つぎにひらく空間 音もなきよろこびの雪斜交(はすかい)に降る 『朝から朝』

すでに椅子ら卓に上げられ灯を消ししレストランに着く夢の中にて  『新樹』


椅子ひとつ水にすわれりうつうつと梅雨降りこむる川の中州に  『一瞬の夏』

濡れまつわる洋傘に手を差し入れて開かんとする畳まれし闇を 『光の春』


砕くれば何ゆえ白き水なるかふたたびを道は渓に沿い行く 『新樹』

人々の持ち込みて来し雨にぬれ電車の床のいちめんの濡れ  (未刊歌篇)

考えがまたもたもたとして来しを椅子の上から犬が見ている   『街上』

朝々の歩みに犬の吠え立つる次つぎに犬を吠えさせて行く  『一瞬の夏』

わが幼子頬熱くして立つ見れば蟇(ひき)ひとつなぶり殺ししところ 『真実』

夜をこめて轟く雨に覚めし子が羽生えしものが通るよと言ふ 『真実』


眠る児の掌ひらくことありて黒くなりたる綿屑が見ゆ  『真実』

口の中に蜜柑をふふむ幼子が眼を細め窓の雲を見てゐる  『年輪』

収入なき父が病む我に金を置き卵を置きて帰り行きたり  『真実』


幼き混沌のなかに差しそむる光の如く言葉あり人の口を読む 『年輪』


家も子も構はず生きよと妻言ひき怒りて言ひき彼の夜の闇に 『年輪』

旅に来て一日ふたりの子を守れるこのかなしみの心のこらむ 『Vorfrühling』

夕べの丘辿り登りて着きし家ともるが如し君が若妻  『真実』


かかる弱き心を友は持たざらむ妻をいたはり今宵も寝たらむ  『真実』

「捨身になれよ高安君」と既にわが言葉の如くなり帰り行く   『年輪』


子のために我を傍観者と呼ぶ妻にしばらく我は茫然となる    『年輪』

補聴器を買ふ話となりて来む夏の旅行のことは言はずなりたり  『年輪』


聾児らの走る間絶えず二階よりかかはりもなく楽は流れぬ    『年輪』

みどり児といへど女子の並び寝て夜床はやさし我らと子らと   『真実』


やさしさの萌すわが娘よ汝が知らぬ我もあるもの我を愛すな   『街上』

八百屋にも我は来慣れてためらはず嵩(かさ)ありて安き間引菜を買ふ 『真実』

とまどひて我は寝ながら父を見る千円の金包を胸の上に置きて  『真実』


五円札手握り持ちて宵々を幼子はひとり耳医者へ行く      『真実』

価高き林檎を子らと分くるとき怒とも恥とも寂しさともこれは  『真実』

抜き抜きて絶えざる畑のこまかなる此の草の名も知りたく思ふ  『真実』


いざ皿も洗はむパンも焼くべしと先生にあひし我帰り行く      『真実』


髭白く明るき声に幼ならに説きたまふ田も作り詩も作れと      『真実』


先生が居給ふとわが思ふのみに寂しき夜半の心ひらくる       『真実』


踏み均(な)らしおのずと出来し小径見ゆ見おろすときに行く人があり 『朝から朝』


コーヒーの湯気消えてゆく赤壁の思わぬ高さに黒き掌の型    『虚像の鳩』


カスタニエンの青きいがいがなりし実が茶色になりて鞄にありつ
『湖に架かる橋』


わが前の空間に黒きものきたり鳩となりつつ風に浮かべり      『街上』


呼びやまず―人かげもなき座礁船傾きて細き帆柱ふたつ     『虚像の鳩』


街行けばたのしからんこと多く見ゆ料理見本の並べる窓も    (未刊歌篇)


食道楽さげすみて来し果てにして恋ほし町々の物食わす店    (未刊歌篇)


今は在らぬ人の夢にて疑わず飲食店に共にありたり        『光の春』


心合う友さえもなき二人にて寂しき顔を並べて歩く      『砂の上の卓』


重くゆるく林の中をくだる影鳥はいかなる時に叫ぶや  『新樹』


かりんまるめろ我らがのちの世に実(な)らむひこばえ育つかりんまるめろ 『新樹』


わが病むを知らざる人らわが心の広場にあそぶたのしきさまや   『光の春』


会いたき人今はあらずも暖く心の中に我を見守る         『光の春』


われ亡くとも変らぬ世ざま思いおり忘れられつつドイツに在りし日のごと
『光の春』


ゆるゆると雪よ降り来よもどかしきわが病みあとの心の上に  『光の春』


さそり座に月かかりつつ音もなし青葉は少しづつ冷えゆかむ  『夜の青葉に』


少女ひとり道に下ろして雪残る谷深くなお行くバスが見ゆ    (未刊歌篇)


生姜 薔薇色に酢にひしめけり胎児らの墓を見たることなく 『朝から朝』


かすかなれば雨よりも音ひそめつつ落葉を降らすからまつ林     『新樹』


舗道より見当つけてくだりゆくベンチにすでに近づく人あり   『朝から朝』


Coffeeのe一つ剥げし壁面に向いて長く待たされている       『街上』


時刻表にありて来ぬバスひとり待つすでに待つのみの姿勢となりて  『虚像の鳩』


ためらいの心に似たり冬一日風に押さるる半開きの扉(と)      『虚像の鳩』


雨空をうつすガラスが風に振れはかなき光ひらひらとせり    『虚像の鳩』


かなかなや一声遠き森昏れて母と我との生まれ月来る       『光の春』


感情の起伏の如く来ては去る雨といえども暖き雨      『朝から朝』


疾走し過ぎゆくものをただ朝とただ夏として寂しみており  『朝から朝』


たえまなきまばたきのごと鉄橋は過ぎつつありて遠き夕映    『一瞬の夏』


塔2013年5月号
座談会「高安国世の歌を読む」
より短歌のみ引用

感想(新進歌人会に参加して)

感想(新進歌人会に参加して)

 5月19日、18時から京大で行われた新進歌人会の歌会に参加させてもらいました。歌会は短歌チョップ以来の二回目でちゃんと歌が読めるか不安だったのですが、主催の小林通天閣さん、参加者の完全なQ体さんと歌を読み合うことができ楽しい時間を過ごすことができました。本当に楽しかったです。ありがとうございました。
 新進歌人会の歌会はテキスト論的に歌を読むというスタンスで、歌の構造から言葉の選び方、助詞のひとつひとつまで丁寧に歌を読んでいくというのが印象的でした。よく歌会の感想で、歌の評を聞く前と聞いた後では歌が全く違って見えるというのを読んで知っていたのですが、自分自身がその通りの経験をして驚きで震えそうでした。
 歌は初読と二回、三回読んでいくにつれ表情を変えていき、他の人の評を聞くことで全く違う歌の一面に気づき、歌を読むということの深さに触れることができました。

 歌会録は主催の小林さんがまとめて新進歌人会のTwitterで後日流して下さるそうです。もし、これを読んでいる方がいらっしゃれば新進歌人会のTwitterをぜひ覗いてみてください。

 小林さんや完全なQ体さんの評を聞いて勉強になることばかりでした。自分と違う読み方というのは、自分は好きになれないと思っていたのですが、その考えは間違いでした。お二人の評を聞いて、その評や読み方が好きだと思う経験はこれからの大きな大きな糧になると思います。

 歌会での読みは歌を丸裸にする、その歌そのものをきちんと見るんだなと知りました。
 自分の歌が他者に読まれて、読まれて、読まれて、読まれることに耐えきれるのか。そこまでシビアな観点では歌を作ったことがなかったので、これからはそういう点も考えて詠もうと思いました。

 また、小林さんが最初にお話ししてくださった短歌とは、詩的とはなにかという話も興味深く聞かさせてもらいました。歌会の合間のテキスト論と作者論についても帰りの電車の中で反芻して考えています。


 詩は生き物であるというような小林さんの帰り際の話に、詩を読んだときの手触りを思い出してなるほどなと思いました。私が読んだあれは、詩に触れたと言えるでしょう。毛皮だったのでしょうか、皮膚だったのでしょうか、甲羅だったのでしょうか。あのざわざわとした心地は確かに自分とは別の命に対峙したときに似ているのかなと思いました。

 これは帰りの電車の中で少し興奮しながら(昨日梅田で買った高安国世のアンソロジーを読んでたのですが、言葉にしたいことが溢れてきたので読むのを中断して)書きました。拙文失礼しました。

追記
 都会は夜でも人がたくさんいました。

なぜ生きているのか 雑記

 掃除をするたびに思う。なぜ二三日後には埃が溜まっているだろうに私は掃除をしているのかと。一週間後には同じように汚れてしまうのになぜ掃除をしているのかと。百年後には全て壊れてなくなっているだろうに、なぜ私はせっせと飽きもせず掃除をしているのかと。
 
 そうやって考えているうちに、そもそもなぜ私は生きているのか分からなくなる。百年後には必ず死んでいるだろうに。もしかしたら、一週間後には骨だけになっているかもしれないのに、なぜ私はせっせと飽きもせず生きているのだろうか。

 この地球だって数百億年後にはなくなっているだろうに、なぜ今存在しているのだろうか。

 しかし、私は明日、吹き溢れで汚れるかもしれない電子レンジの汚れを綺麗にしている。
それは明日になればもっと汚れてしまうから?
いや、違う。今日掃除したかしないかで一週間後にとても汚れているのは変わりはないだろう。
 ではなぜ掃除をするのか。
 それは、"今"そう、おやつと一緒に飲む豆乳を温める"今"綺麗な電子レンジを使いたいからだろう。もしくは、家族に綺麗な電子レンジを使ってもらいたいからだろう。

 私は埃っぽい部屋でも生きていけるが、父は絶対に嫌がるし、まずくしゃみを連発する。私は家族と楽しくこの家で暮らしたいので家を掃除する。一週間後に大地震が起きるとしても、私は今夜、録画していた音楽番組を父のくしゃみなしで、父と祖母とまったりしながら見ていたい。

 では、なぜ私は生きているのだろうか。明日、死んでいるかもしれないのに、なぜ私は"今"生きているのだろうか。
 それは紛れもなく"今"を生きていたいからに過ぎない。明日生きているためには今生きていないといけないというのもあるかもしれないが。
 生は点のようであり、線のようである。点と言い切れないのは、私は今日死んでしまったら明日は生きていられないからだ。
 しかし、明日を楽しみにして生きていて、今日の夜死んでしまったら、"今"生きていることに何の価値があるだろうか。そういう場合は"明日を楽しみに今を生きていた"という意味があるだろう。
 そう、私は今しか生きることができない。明日を楽しみにすることはできても、明日を生きることはできないのだ。

 これはその人その人がどれくらい長期間のタームで未来を見れるかによると思うのだが、私は未来のために今日を犠牲にして生きていたくないなと思う。未来のために今日を犠牲にすることを"今楽しめている"状況ならばいいのだが、100%未来のために生きることをしたくない。幸いながら今を生きていると、だいたいの日常が明日に地続きで繋がっているため、私は今を楽しんで生きていたいなと思う。

 明日、必ず生きていたいから、今日は死んでも生きてやる。という日も来るだろう。とにかく生きていたいと思う日も来るだろう。だが、今の私はたまに「死にたく」なって、そういう"今"を生きている。だから、たまに「死にたく」なってもいいかなと思う。こんな風に生きたいと思うことを疑いながら考えるのも私の"今"の生き方のひとつなのだから。


 片付けをしていたら、私が中学三年のころに書いたものが出てきた。詩、のような詩ではないような。
 夜中に全身が痛くてたまらなくなる恐怖に襲われて書いたのだけは覚えている。その頃から書くことは私を救っていた。恥ずかしいような、今よりまともなことを書いてあるような、不思議な気分でそれを読んだ。
 デジタルに起こしてみようかなと思ったが、手書きのそれの価値を失いたくなくてまだデジタルには起こしていない。いずれ書くかもしれない。

 あれから七年経った。何も成長していない気がするが、文を書くことをまだしていて少し安心する。

 締まりがなくなってしまったが、今日はここまで。2018/5/14 二階の部屋で 雑記