さはらやの倉庫 詩と短歌と短編と

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2/16(金) 日記と短歌

 今日は気分がいい日だった。
 カウンセリングに行った。辛い気持ちにあまりならなかった。

 図書館に行った。久しぶりに哲学の棚をうろちょろした。昔、挫折した本を借りた。それと二週間では到底読め切れなさそうな量の六冊の哲学書。

 図書館が好きだ。図書館でどの本を借りようか考えている時間が好きだ。

 図書館で借りてきた本の全てを貸し出し期間内に読みきれたことはほぼない。いつも読みきれない量の本を両手に抱えて、貸し出し機の前へ向かう。

 本を読むことより、図書館で本を借りるという行為が好きなのだと思う。

 図書館でたくさん本を借りたのは約三ヶ月ぶりだ。図書館に行けたのもこの前の日曜日が三ヶ月ぶりだった。

 三ヶ月の間、私は家庭教師と病院の診察とカウンセリング以外あまり外に出なかった。出たとしても、家を出る前に泣きながら支度をして何度も死にたいと思いながら外出したことが五回ほど。内訳は一度恋人に会い、文フリに行き、三度ほど散歩をした。

 その頃に比べると大分気分が良くなった。
 私が大学に行っていないのは、ずっと病気のせいではなくて、私が大学に行きたくないという甘えだと思っていたのだが、ここまであからさまに気分が良くなるとあの気分の沈みはやはり病気と呼ばれる類いのものだったのではないかと疑ったりしている。
 相極性障害の薬は飲んでいるのだが、やっぱり自分が大学に行けていないのは甘えてるだけだと思う。

 まあ何が言いたいかというと、図書館で本を読みきれないほどたくさん借りてくるのはすごく楽しいということだ。積ん読ならぬ借り読(かりとく)。

 カントとヘーゲルを借りてきたけど、弁証法がなんとなく分かるようになればいいかなーとか思ってる。

 けれど、私が哲学書を読む理由の九割は哲学書を読むという行為が格好いいからだ!だって、哲学書を片手にコーヒー飲むとかすごく格好いいじゃないか!

 湯船で一時間ほど石川啄木の歌集を読んで、石川啄木、サイコー!となった。これはまた別の記事で書こうと思う。書けたら。

最後に適当に短歌を

三ヶ月ぶりの図書館
暗くなる外を見ながら
七冊を借りる

三行に分かちて書けば
啄木になると
思っているのは間違い



 

好きな短歌をパロってみた2

好きな短歌をパロってみた2
好きな短歌を真似して詠んでみました。2回目。


水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って(笹井宏之)

座布団で眠る 明日の不安から落ちた冷たいネジを隠して(さはらや)

海岸を走る テールランプから落ちる光を夜風にのせて(さはらや)


とても好きな歌。歌集ひとさらいのカバーにもなっている歌。一度読んで、冬の水田に散らばる楽譜が思い浮かび好きになった。真似してみたが、情景が目に浮かぶように詠むのは難しい。うまくいかない。

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広場すべて速度と変る一瞬をゆらゆらと錯覚の如く自転車 (高安国世)

五番ホームすべての音が止まるとき幻のように君の横顔 (さはらや)


高安国世の歌。広場の中で自転車だけがゆらゆらと錯覚のように、しかしそれのみがスローモーションで止まっているかのようにありありと目に飛び込む情景が思い浮かばれる。その情景を真似しようと思った。騒がしいホームの中であの人の横顔を見つけた瞬間、辺りが静まったかのように思えその横顔だけがはっきり見える。というような構図を詠んでみた。

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秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ (百人一首

冬の駐車場の沼は凍てついて私の靴が細く汚れる(さはらや)

赤色のポストの横の向日葵と見る方角を同じに止まる(さはらや)

百人一首の一番初め。私は百人一首を読もう!と思うと初めから順番に読んでいき、20首目くらいでいつも飽きるのでこの歌は覚えた。
詠み人を知ったときこれを詠んだのが農民でなく天皇ということに驚いた。
前半は情景の説明、後半が私の衣が濡れたよという事実。たぶん、百人一首の理解としては初歩の初歩にもいっていないが、真似するとなるとこうやってしか捉えられず、自分の理解度のなさを知る。
わが衣手に露は濡れつつ、は荒い藁の隙間を伝った露に衣が濡れると同時に、故郷に置いてきた家族を思い泣いているのだろう。こんな悲しい農民の歌がなぜ百人一首の最初なのだろうか。もう少し本を読めばどこかに書いてあるだろうか。ちゃんと読んでみよう。

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死ののちもしばらく耳は残るとふ 草を踏む音、鉄琴の音(澤村斉美)

骨ならば風がはっきり見えるはず空へ行きたい、土になりたい(さはらや) 

ここ歌は桜前線開架宣言で知った。それまで口語の短歌しか読めない……と思っていた私が、初めて文語の短歌もなんかおもしろいかも!と思えた短歌だ。鉄琴の音、という語彙は私の中でとても新鮮で心に残った。鉄琴の音、確かに私はそれを知っているが改めて言葉にすることを知らなかった。死んだ後も耳は残るという上の句も衝撃的だが、その残った音が(もしくは残ると思われる音が)草を踏む音、鉄琴の音である主体の人生がとても気になった。鉄琴の音、この語感がとても好きである。

上の句を中心に真似してみた。死ののちも耳が残るなら、骨になったらさぞかし風をはっきり感じられるのだろうなと思って詠んだ。もう少し下の句をひねれば良かったかもしれない。

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向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し(寺山修司

蝉時雨ヤカンで水をかけるまで祖父の墓石は私より熱い (さはらや)

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一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき(寺山修司

一対の太陽と月ありし春に霞みは私の産着であって (さはらや) 



最後に寺山修司の短歌を二首。寺山修司の文庫本の歌集の最初のページに載っている二首だ。どちらも向日葵の歌。
そのページには同じモチーフが何度も出てくる。チエホフの祭り、向日葵、死んだ父……。
父の墓標か自分より低い、というのは何とも心に来る。子供の頃は自分よりずっと大きかった父が死んで、その墓標は自分の背丈よりも低い。もう父を見上げることは決してないという事実。大きいと思っていた人が、もうこの世にはいない事実をありありと示されるようだ。
向日葵は枯れつつ花を捧げおり、これは夏の終わりなのだろう。枯れつつも花を捧げる向日葵を晩年の父に重ねているのではないかなどとも考えた。


一粒の向日葵の種まきしのみに……

これはこの歌集の最初の一首。処女地という言葉がこれから歌集を編み始める歌たちの最初のひとつとしてすっと背を伸ばしているように思える。我の処女地。これはまさにこの歌集のことだろうか。一粒の向日葵の種はこれからどう育つのだろうという期待、荒野という言葉に表させるようにまた未開発の自分自身。荒い青春の風が肌で感じられるようだ。

私の好きな短歌をパロってみた 

私の好きな短歌をパロってみた 


かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり(高安国世)

柿赤く空は雲まで高く澄み私は嘘をつき続ける子(さはらや)

とにかくk音の続く練習がしたかった。
上の句でk音を押しておいて、下の句でも最後に〆のようにk音を使うと全体が締まるのかなと思った。

上の句の情景と下の句の心情という対比も真似したい。しかし私の場合、上の句の秋の晴れ空の情景と下の句の嘘をつき続ける子、というのはちぐはぐな印象になってしまうのではないかと思った。それともそれはそれで、落差があっていいのか?

高安国世の真実を生きるに対し、私の嘘をつき続けるというのを対にしたのはわざとです。「現代短歌」を読んだとき、高安国世のこの歌を詠んだ心境を知りった。自分の信念を貫いた高安国世は私とは正反対だと思った。それ以来この歌は強烈に私の中に残っているし、この歌を知って高安国世を知り、高安国世が好きになった。

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アンアンの星占いで れんあいのところを見なくてすむの うれしい
(今橋愛)

かあさんのコートの中で なつまでの匂いを嗅いでしまって さみしい(さはらや) 


桜前線開架宣言を読んで、一番初めに好きになった歌。この歌が目から離れずに、何回も繰り返し読んだ。
これってきっと失恋の歌。
なのに、最後がうれしいで括られている。私はそれが苦しいほど分かった。
恋をしてるのは楽しいけど、そればかりじゃない。無意識の内に恋占いを気にしてしまうし、それが悪いないようだったらとても落ち込む。見なきゃいいのにと思うけれど、相手と自分の運勢や相性を確認するのをやめられない。
でも、恋が終わったらそれらを「見なくてすむ」のだ。この「すむ」ってのが最高に好き。肩の荷が降りた感じ。

この歌の平仮名の感覚(この歌人のかもしれない)がとても素敵だ。母音と単語の長さ、動詞と名詞の入れ方を真似た。
私の短歌はさみしいで終わる。
母のコートの中なのに、次別れたら夏まで会えないことを思ってさみしい。母は長い休暇までもう帰ってこなくて、分かっているけど少しさみしい。

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「雨だねぇ こんでんえいねんしざいほう何年だったか思い出せそう?」(笹井宏之)

「春だねぇ 屯田兵の行き先は西ではないと知った気分は?」 (さはらや)

改)春だねぇ 屯田兵の行き先が西ではないと知った気分は?(さはらや)


笹井宏之さんはとても好きな歌人。到底真似できないような歌を詠むから、そのままそっくり真似してみた。
雨だねぇは春だねぇに。
最初のa音は外したくなかった。
こんねんえいねんしざいほうって歴史だから屯田兵に。
"ん"が入っているから調度よいかと思って。
西ではないと、は一応オリジナル。
屯田兵って北海道を開拓した人だったよね?
思い出せそう?の動詞を知った気分は?に替えた。

元が素敵だから、真似をしても素敵な短歌になりました。Twitterで真夜中に褒めてもらえてとても嬉しかった。いつもふぁぼしてくれる人へのお礼ってどうすればいいんだろう。お礼をしたい人が何人かいる。リプもDMも飛ばせずにうじうじしてる。

いつもふぁぼしてくださる人!本当に生きる気力になっています!ありがとうございます!
今度、DMしようかな。

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このケーキ、ベルリンの壁入ってる?(うんスポンジにすこし)にし?(うん) (笹井宏之)

そのスーツ、バルタン星人向けのやつ?(うん上着だけ)絹?(綿半分) (さはらや) 

そのシーツ、キャンベラの冬みたいだね(キャンベラが好きだから)冬?(ふゆ) (さはらや)


この歌は一番好きな歌!
だってベルリンの壁入ってる?だよ?最高だと思う。しかも西?だよ?最高だと思う。上手く説明が出来ないことが悔しい。いつか言葉にします。


二首、真似て作ってみた。
まずはバルタン星人。自分でも詠んでてふふって笑った。バルタン星人向けのスーツってなんだよ。ちゃんとはさみが入るやつかな。

完全に構造のみを真似してるだけなのに、真似した短歌が成立するっていうことは、その短歌の構成が素晴らしいってことだよね。

短歌は内容が大切だと思う。自分が納得した内容の短歌じゃなきゃどんな上手くても私は嫌だ。けれど、内容がどれだけ良くても短歌の技術がなければ短歌として良くはならないとも思う。

写真と同じで、被写体がどれだけ素晴らしくても構成や露出の技術がなければいい写真にならないのと同じで。
逆に平凡な被写体でも構成などの技術がそろっていればその写真は作品として良いものになる。

そんな考えて、今回、好きな歌をパロってみた。
予想以上に楽しい。
自分が短歌が上手くなった気になれて楽しい。
そして、上手な歌っていうのは言葉の使い方、配置が上手なのだと改めて気づかされた。
すごいなぁ。

あ、ベルリンの壁のパロったやつの二首目。これは最後の ○○?(○○)っていう二文字の掛け合いを真似したくて。それだけ。
キャンベラはアイルランドの首都だっけ?寒そうだ。

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「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい(笹井宏之)

「あおぞら」を自販機で買う ふふ、夏は見切れた入道雲が眩しい (さはらや)


これもとっても好きな歌。
そして構成が美しいと分かる歌。

「はなびら」a音を多用した開かれた、そして少し幅のある言葉。
その後に点字をなぞるとあるため、ここから想像が始まる起点。

それを真似して「あおぞら」とした。音的には完璧な真似だと思う。そして言葉の幅もある。

「ああ、これは」
感嘆詞と指事語で五音使ってしまうなんて大胆だなと思う。けれどこれがあるから、瞼の裏にぱーっと桜を描くことができる広さがこの短歌に生まれるのではないかなと思った。

私は真似して「ふふ、夏は」
とした。ふふ、という感嘆詞は笑いを表す。自販機で買った主体の気分を表現してみた。
「夏は」はオリジナルと違って、「あおぞら」をより詳しくするために使った。歌の広がりという点では真似できなかった。

入道雲が見切れて眩しい
は真似というより私が入れたかった言葉です。あおぞらが自販機から出てくる時点で、きっと夏限定バージョンは入道雲がたくさん張り付けてあるだろうなとか考えてしまって、どうしても入道雲を入れたくなった。
自販機で買うから、入道雲は見切れてる。けれどそれが余計に眩しくて、主体は思わず笑ってしまった。
あら、気づけば自分の歌の解説をしてしまった。失礼。



このように好きな歌を真似てみると、その短歌の良さが改めて分かった。
そして、よい歌は題材だけでなくその短歌の構成、言葉の使い方、単語の文字数、単語の位置、構成、動詞の入れ方などが良いのだなと思った。

真似、って楽しい。
学ぶが真似るから来るように、真似たら私も少しは短歌が上手くならないかなと思っている。


お読みいただきありがとうございました。

詩 私の願い

私の願い


意味のないことをしようよ。
意味のないことをしようよ。

影が逆さまに伸びて
初めて太陽と出会うとき
どんな顔をするだろうか

意味のないことをしようよ。
意味のないことをしようよ。

意味のないことを君としたい。


世界に意味がなくなればいいのに。

春よこい

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春よこい

 まだ桜は咲いていない。桜並木が有名な川沿いの土手は昨日よりぐんと暖かくなった陽射しできらきらと輝いていた。
「はやく春になるといいね、兄さん」
二番目の弟はもどかしそうに靴を、靴下を脱いでいた。
「川に入るのか?冷たいぞ」
俺の声も聞かずに、彼は浅瀬へと走り出した。
「うっひょっ冷てぇ!」
言わんこっちゃない、と思ったが弟の顔があんまり眩しくて俺は身体中がうずうずするのを感じた。芽吹く前の蕾ってこんな感じなのだろうか。
「優太、服は濡らすなよ」
それでもまだ兄という立場が気になって靴を脱ぐことができない。
「はーい!」
素直に返事を返した弟に、いっそのこと「兄ちゃんも一緒に遊ぼうよ!」と誘ってほしいなどと思ってしまう。
「兄ちゃんも一緒に遊ぼうよ!」
まるで俺の頭の中を覗いたかのような優太の言葉に俺ははっと目を見開いた。そこには太陽を反射させた川のきらめきと、優太の少し赤くなったくるぶしと、溢れんばかりに伸びようとしているまだ若い土手の草。なんだ、もう春は来ているじゃないか。
「少しだけだぞ」
興奮を隠すようにそう言えば、俺は靴も揃えずに歩き出す。足の裏に当たるちくちくとした草の感覚が気持ちいい。
「見て、サギだ」
少し下流に真っ白なサギがいた。弟の声に驚いたのか音もさせずにふわりと飛び立つ。上へ上へと飛んでいくサギをふたりの目は追いかける。
「春だね」
「春だな」
仰ぎ見た青空はこれでもかというほどに春の匂いを溜め込んでいた。

相聞歌 雨の日にしか来ない人

相聞歌 雨の日にしか来ない人

短編「雨の日しか来ない人」の私とワタツの歌のやりとり。


ワタツが名を名乗り、私を抱きしめた夜の翌朝、私の枕の下に一枚の短冊が置いてあった。
そこにはワタツからと思われる歌が一首。


くちなしの花の涙を集めては墨摩る水とする雨の夜


私は急いで墨と筆を用意して返歌を考えた。
ワタツの書いた短冊の裏側に返歌を書く。


雨の夜の波を掬ってまた返す夢見心地の満月の下


次の雨の夜、布団の上に短冊を置いておくとワタツが少し驚いたように私を見た。
そして「夜明け前に墨を貸してくれますか」と言った。私は頷く。
私とワタツの歌のやり取りが始まった。




戸を叩く嵐の声を聞き入れた君の吐息の静やかなこと

私ごと拐ってしまう嵐だと思う間もなく髪は乱れる




まだ青い野苺すみれカスミソウ子兎春の君のかわいさ

まだ赤い頬を隠して摘みに行く君にほどいてもらうシロツメ



幼子のように丸まる君の背とうなじの白き野に赤い花

夜明けには散る花ならばその蜜の甘さも知らぬままがよかった



なまぬるいうちわの風の立ち上がる君の衣は流るるごとく

夜も更けて溶けた氷は汗となりひとつとなれることの切なさ



朝焼けが小屋の隙間を通り抜け影は私の身体に落ちる

君が去る朝に名前をつけるなら悲しい文字をいっぱい使う



雨粒を遠く見つめる君だけが忘れられずに落とす口づけ

君の背に腕をまわした温もりは雨に消されぬ確かな種火



激情で君を壊してしまおうか部屋はふたりの凪いだ海風

朝顔の種を枕に忍ばせる君も私も同じ夕顔


続け続け虫よ鳴き続けよ床の夜は渡れぬ瀬よりもはやい

かの国の川の中洲に橋はなく水面に触れる裾は重たく



みぞれ雨君の恋しが聞けるかと思い訪ねてみてもつれなく

君の手の冬の匂いがすることの真新しさに少し怯える



君思う茜は空を染め上げて薄く伸ばした雲の縁取り

君思う鍬を立て掛け戸を閉めて乾いた土には足跡付かず



頂を駆け降り海へ消えていく風は確かに夜香を含む

風に請う君の香りを連れてきてくれぬかそれは磯であっても



太陽を恨むばかりで泣くそれが降れば私は息を切らして

雨乞いもできぬ私は貝になり雲を吐き出す夢ばかり見る



微笑みが春の陽射しを連れてきて私は君を隠すのだろう

触れる手が春を知らせて名をつけるならば"ほほえみ"君はほほえみ


私がワタツを追いかけて行った日の夜、私とワタツは納屋で眠った。その翌朝、ワタツは少し照れ臭そうに私に歌を伝えてくれた。


役立たずの傘を愛してくれますかあなたを抱きしめるだけの傘を

私はその歌に返した。

愛しましょう傘は折れても雨は降りあなたと共に生きていきたい


その次の雨の日から、ワタツは夜が明けても私の家に留まり、朝御飯を食べてから海へ帰るようになった。


続く

草枕を読んで

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 ぽつりぽつりと土の色が濃くなり、雨が降ってきたと気づいた。そう言えばさきほどから草の匂いが強い。やがて土は泥となり、雨水は側溝へと流れだす。何本もの曲線が絡み合ってその流れを作りだし、これがぽつりひとつと降ってきた雨粒から始まったのかと思うと驚かされた。
 こんな詩的飛躍は私には書けない。
 一本の曲線は蛇に似て、もう一本は子供の縄跳びに似ていた。見ていると、とても楽しい気持ちになる。それらが流れ着く側溝の中は茶色い水がごうごうと音をたてながら走っていた。詩も絵画も結局は濁流のような時代から逃れられないのだと思うと少しがっかりをする。その濁流から飛び散った飛沫がキラキラと光って土の上に戻った。それらは一瞬水滴の形を残し、また濁流へと流れて行った。
草枕を読んで)